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2013年3月

2013年3月 6日 (水)

歓迎光臨!周星馳迷俱乐部

久しぶりに明るく周星馳・・・

【小黄毛の “周星馳を観ろ!”(4)】
『ゴッド・ギャンブラー III』(原題:賭侠2之上海灘賭聖)1991年作

『ゴッド・ギャンブラー II』の続編?
というか、アンディ・ラウは出てこないし、ストーリー性に全く繋がりがないので、賭聖=周星馳主演、というだけの映画です。
またまた馬鹿馬鹿しい。
賭聖が1937年の上海にタイムスリップしちゃいます。
上海が東洋の魔都、と呼ばれ一番輝いていた時代ですね(周星馳は上海系らしい)。
今作品は、1980年代にヒットしたチョウ・ユンファ主演のテレビドラマ『上海灘』のパロディがたくさん出てきます。
なので、そちらを観てからのほうが楽しめますが、日本で香港の連続ドラマを観るのは不可能です。
もとい、『上海灘』をまったく知らなくても問題ありません。
いつもどおり、ハチャメチャなギャグのオンパレードなので、充分楽しめます。
賭聖が携帯電話を持ったまま1937年の上海へ行ってしまうのですが、その時代の上海から現代へ電話をかけます。
繋がっちゃいます!普通に・・・
周星馳の映画の説明をするのにもってこいのシーン、エピソードです。

周星馳の映画はひとことでいうと、こういう映画です。
これを馬鹿らしいと感じる方は、観ないほうが賢明です。
面白いと思う方・・・
歓迎光臨!周星馳迷俱乐部
(ようこそ!チャウ・シンチー・ファンクラブへ)

PS.チョウ・ユンファのテレビドラマ『上海灘』で思い出しました。
周星馳の映画ではありませんが、オススメの香港映画をひとつ。
アンディ・ラウ、レスリー・チャン主演の
『上海グランド』(原題:新上海灘)1996年作
1930年代の上海を舞台にしたヤクザ映画です。主演の二人がカッコイイ!
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2013年3月 3日 (日)

三波春夫(10)

・・・(9)よりつづき
三波春夫伝説・・・
・・・以下、Wikipediaより抜粋、編集

【こぼれ話③】
「明日咲くつぼみに」での縁で、永六輔は晩年の三波と交流があった。そして後年に、三波の追悼番組で語った。永は色々な箇所の老人ホームでの交流活動に力を注いでおり、ある時奈良県のとある老人ホームに出向く際に三波を誘ったところ、三波も「是非行きましょう」と快諾した。現地に着くと、老人ホームの園長にある事を言われた永六輔。
「ずっと歌を歌い続けているおばあちゃんがいるんです。どんなところでもずっと歌を歌い続けるんですが、そのおばあちゃんも三波さんのところへ連れて行っても大丈夫でしょうか?」と聞かれた。そこで、永六輔はそういうおばあさんいるという話を三波したところ、三波は「全然構いません。気にせず歌います」と話した。歌う前に、そのおばあさんが入ってきたところ、園長の言う通りずっと懐かしい歌を歌っていた。三波は真っ先にそのおばあさんのところへ行って、懐かしい歌を一緒に歌っていく。すると、歌声がだんだんと観衆全体に広がっていった。それをそばで見ていた三波の妻・ゆき夫人は永六輔に「永さん、三波はいい歌手になりました…」と話した。またその後、三波は永六輔に「永さん、私は今日は反省しなければなりません。驕っていました。私は、皆さんに私の歌を聴いていただこうと思っていました。しかし、皆さんそれぞれに好きな歌があるじゃないですか。それに対し思い上がっていた私が恥ずかしいです」と。永六輔は、その話を聞いたときに思ったことがあったそうだ。それは、「三波さん、あなたが神様です・・・」の一言であった。

生前に発表した楽曲数は1,058曲、シングル盤の総売上は2,510万枚を記録した。
三波春夫は、昭和から平成に、歌謡浪曲で時代を作った不世出の大歌手である。
3
三波春夫、あなたは言いました「お客様は神様です」
でも、違いましたね・・・
そうです。三波春夫、あなたが「お客様の神様です」
・・・なのです!

私事ですが、私の神様・・・それは、私の奥様です。
チャン、チャン!

三波春夫・・・終わり

三波春夫(9)

・・・失礼・・・

今回も店の客と言えぬ客に叱咤、叱責を先に・・・

なぜ、予約時間過ぎても店に来ない?
こっちから電話して「キャンセルします」って
・・・コラッ!

・・・(8)よりつづき
三波春夫伝説・・・
・・・以下、Wikipediaより抜粋、編集

【こぼれ話②】
96年の暮れ、永六輔に作詞を依頼、スタジオでレコーディング時の出来事。永は「この歌は、ストレッチャーで寝てても歌える。100歳になっても歌える、そんな歌にしたい。三波さんって、いくら元気はわかるけども90歳で俵星玄蕃はできないでしょう。だったらやってください」と三波に話した。しかし、何度やっても三波は元気に歌い上げてしまう。声を張り上げて歌う。それを見ていた妻・ゆき夫人は永に「永さん、もうやめて下さい。あの人はあの歌い方しかできないんです。力なく元気なく歌うなんてことはできないんです!」と話す。「じゃあ辞めましょう」という永の言葉が出た後に、ゆき夫人は三波がいるスタジオの中に入っていき「あんた、永六輔が言ってることがわからないのか!力抜けって言ったら力抜け。お前は三波春夫じゃないか!ああ、もう三波春夫はいないのか!」と、三波に怒鳴った。それを窓越しに聞いていた永は涙を流した。永は一言「ああ、あの奥さんがいて、初めて三波春夫がいるんだって痛感しましたね」と語った。
三波は、ゆき夫人に言われた後いつもの笑みで一言スタッフに答えた。「もう一度、お願いします」と。永六輔は、今でも悔いているという。それは歌う三波本人にとって、辛い歌詞にしてしまった、ということである。結局、三波はぼそぼそと呟くかのようにこの歌を吹き込んでおり、生きている心地を深く感じることのできる曲となった。4年後、77歳でこの世を去る。

この偉大な歌手の影に偉大な妻あり!
うん、やはり、素晴らしい奥さんだ!

このような奥さんを持ち、立派な家庭を築き、
精一杯、自分の能力の限り仕事ができ
何よりも最期に「ありがとう。幸せだった」といえる・・・
そんな人生を送れる人間は、どれだけいるのだろうか?

店の予約・キャンセル問題から
「お客様は神様です」を経て
大歌手・三波春夫のプロの心意気を知り、
そして、人間・北詰文司も素敵でした。
さらに奥様、娘さんたちの家族の強さ、愛情・・・

三波さん、ごちそうさま、ありがとうございました。

そういえば息子の三波豊和さんは、あまり見なくなりましたが、
今も芸能界で頑張っているのだろうか?
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2013年3月 2日 (土)

三波春夫(8)

つづいて三波春夫伝説・・・
・・・以下、Wikipediaより抜粋、編集

【こぼれ話】
1978年、映画『ルパン三世(現在では販売用ソフト「ルパン三世 ルパンVS複製人間」として販売)』の挿入歌「ルパン音頭」と「銭形マーチ」のレコーディングの際の逸話。作曲を手がけた大野雄二によれば収録スタジオにやってきた三波は、もう既にスーパースターでありながら驕ったようなそぶりは一切見せず、収録に参加したスタッフや大野に対しても「宜しく御願いします」と深々と頭を下げ、収録時には18歳も年下の大野に対して「先生、これで宜しいでしょうか?」と何度も確認するなど非常に丁寧な物腰で対応した、と大野の著書にて触れられている。
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・・・さらに(7)よりつづき

1996年暮れには永六輔作詞の『明日咲くつぼみに』をレコーディング、1997年発表。晩年の数年間は永六輔とも交流があり、老人ホームを訪問して、訪問先の老人たちが好きな歌を合唱したりなどの交流活動にも尽力した。
1998年8月6日、さだまさしが平和への祈念を込めて毎年夏に長崎で開催した無料コンサート「1998 夏 長崎から さだまさしコンサート」にゲスト出演。「この山は、この川は」と「世界の国からこんにちは」「大利根無情」を歌った。
1999年12月31日、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場。この回が生涯最後の紅白出演となった。当時76歳であった三波がこの時に歌った『元禄名槍譜 俵星玄蕃』は、60年にも及ぶ三波春夫の歌芸の集大成とも言われる。
2000年の5月、生前最後のシングル曲となった「富士山」のレコーディングを家族が見守る中行われた。この頃になると、だんだんと三波の体が弱りつつある状況であったとされている。
2000年11月、故郷の越路町の町制記念イベントで舞台に立ち、渾身の力を振り絞って歌声を披露した。これが現役歌手としての最後の舞台となり、安心したのか、その後体調を崩して翌12月上旬に東京都内の病院に入院した。
入院中に辞世の句と受け取れる「逝く空に桜の花があれば佳し」という句を遺している。これは三波が読み上げ、美夕紀が書きとったものである。2001年の1月末のことで、「辞世の句、みたいかな」と笑顔だったそうである。
2001年4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去、77歳。なお、亡くなる3日程前から眠っている状態だった三波だったが、亡くなる2時間前に目を開き、「ママ(ゆき夫人)、ありがとう。幸せだった・・・」と言った言葉が、三波の最期の言葉であったという。

な、涙が・・・

自分もこういう死に方が、否、生き方ができるだろうか?
最後に妻に向かって「ありがとう」と
「幸せだった」と、いえるだろうか?

きっと、奥さんは「こちらこそ」と
返したんだろうなあ・・・

ゆき夫人も、娘の美夕紀さんも、この家は・・・
きっと仲の良い家族、幸せな家庭であったんだろうなぁ

もう少し、いい話つづきます・・・

三波春夫(7)

お客様へ
(三波春夫のいうお客様とは、違う!断じて!)

お願いがあります・・・
予約後のキャンセルは、本当にやめてください。
頼むしかしかありません・・・
キャンセルの可能性のある方は、予約しないでいただきたい。
どうか、わかってほしい・・・
キャンセルするなら、予約するな!

・・・怒りを鎮めるために今日も書きます
・・・そのためにリライトしているようなものです
・・・三波春夫伝説

・・・(6)よりつづき・・・

・・・以下、Wikipediaより抜粋、編集

1992年、シングル『ハウスおまんた囃子』でハウス・サウンドを導入。ライヴ・イヴェント"HARUO IN DANCE BEAT"では電気グルーヴと共演。シングル『ジャン・ナイト・じゃん』ではラップにも挑戦して話題となる。この『ジャン・ナイト・じゃん』ではで若年層にもファンが拡大し、人気ナンバーワンディスコ、ジュリアナ東京でもライブを開催。その当時三波は69歳という年齢での挑戦であったが、圧巻であった。ほかにも「チャンチキおけさ」のラップバージョン等をテレビでも披露している。

1994年1月、体調を崩して訪れた東京都内の病院で前立腺癌と診断された。発見された時点では既に早期発見ではなく、娘・美夕紀が、三波と三波の妻・ゆきを前にして病名を告げた。しかし、三波はたじろぎもせずに「仕事をしながら病気と闘っていきましょう」と家族に語ったという。また、亡くなるまで家族以外には一切病名を隠し通した。
同年はがん宣告以後、三波は長編歌謡浪曲の集大成として制作していた2時間25分の組曲アルバム『平家物語』を構想10年執筆6年という歳月をかけた上で無事完成させる。この「平家物語」は第36回日本レコード大賞企画賞を受賞。
さらに8月には東京・銀座の歌舞伎座にて芸道55周年記念のリサイタルも開催され、その年の仕事を無事に乗り切った三波は、闘病生活に自信を持った。いつもと変わらぬ笑顔でステージに立ち続けた三波であった。

69歳にして、ハウス・ミュージックやラップに挑戦。
大正生まれが、ジュリアナでライブ・・・
今も昔も、他にもこんな精力的な活動をした、
活動をする超のつくベテラン歌手はいたのか、
いるのでしょうか?

がんの宣告を受けた後も、それ以前と変わらぬ仕事を
こなしているしているようですが・・・
辛くないのだろうか?痛くないのであろうか?
私自身はガンの経験がないので理解できないのですが、
昨年、母親が肝臓ガンを宣告され、手術しました。
ガンの場所、種類、進行状態など違うので、
一概には比べられない、言えないのでしょうが、
その時の母親を見ていると、とても仕事など出来る状態ではありません。
何よりも気が滅入っている様子で、生に対する意欲をなくしていました。
それが、ステージに立ち続ける・・・
カラオケで何曲かとは違うでしょうに
しかも、いつもと変わらぬ笑顔・・・
いくら仕事とはいえ、
それがトレードマークとはいえ
スッゲエ、じいさん!やなぁ・・・つづく
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さぁ〜、イクよ〜!ノッてるか〜い・・・って、やたのかしらん

2013年3月 1日 (金)

三波春夫(6)

前回よりつづき・・・

・・・以下、Wikipediaより抜粋

1975年、三波春夫名義で『おまんた囃子』の作詞作曲を手掛けて発表し50万枚のヒット。
さらに浪曲師時代の経験を生かし、歌と浪曲を合体させた長編歌謡浪曲を創り上げ三波歌謡の象徴となる。その代表作が、北村桃児(きたむら・とうじ)の筆名を用いて作詞構成し1964年に発表された『元禄名槍譜 俵星玄蕃』であり、一歌手に留まらぬ精力的な創作活動を展開している。以後、数々の日本史上の登場人物や出来事を題材にした長編歌謡浪曲を発表していった。
1986年の第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録の29年連続29回目の出場を果たす。

特筆は・・・
浪曲師時代の経験を生かし、歌と浪曲を合体させ自らが作詞構成し、
後に三波歌謡の象徴となる長編歌謡浪曲を創造・・・
以降、数々の日本史上の登場人物や出来事を題材にした長編歌謡浪曲を発表・・・
一歌手に留まらぬ精力的な創作活動を展開した・・・

この辺の件が、芸能人としての三波の非凡さ・・・
国民的歌手という自分のポジションに満足することなく、
さらに日々努力し、向上するという強い意志・・・
シンガーというエンターテイナーよりさらに上を目指し、
クリエイターとして芸能界に貢献する、君臨する・・・
という覚悟、自負が伺えます。
2
さらに晩年の活躍、生き方がが素晴らしい
・・・つづく

三波春夫(5)

・・・前回よりつづき

・・・以下、Wikipediaより抜粋
1957年6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。デビュー曲の「チャンチキおけさ」「船方さんよ」のカップリングが売れに売れ、一気に大人気歌手の仲間入りを果たす。
翌1958年、第9回NHK紅白歌合戦に「雪の渡り鳥」で初出場。
戦後の、日本の復興の象徴ともいえる二つの大きな祭典でも三波の存在が光った。東京オリンピックの前年の1963年に、テーマソングとして「東京五輪音頭」がレコード会社8社競作のもとで発表される。三波のほかに、北島三郎や三橋美智也、橋幸夫盤が存在したが、その中でもテイチクの三波盤が突出して大ヒット。250万枚を売り上げる。
6年後の日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を歌ったことで1970年、リベリアで発行された日本万国博覧会を記念した切手に登場した。日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことであった。また、同曲の三波盤は130万枚のヒットを飛ばした。この頃から、三波は「国民的歌手」と呼ばれるようになった。
そして「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」の2曲は、三波が生涯最後まで大切に歌い続けたことで、歌手・三波春夫の代表曲として今でも知られるようになっている。
晩年、三波はこの2曲のテーマソングを「生涯の宝物でございます」と語った(1994年芸道55周年記念リサイタル中のMCにて)。

人が羨む立身出世物語。
まさに戦後日本の世紀のイベントである、
東京オリンピックと大阪万博のテーマソングを歌えたのは、
強運といえば言えますが、その役が回ってくるということは、
それなりの実力、実績があったからでこそ・・・
でも、筆者が三波春夫に感銘をうけたのは、
こうした歌手としての成功話ではなく、
別のエピソード、晩年における社会に対する接し方にあるのです。
長くなるので、次回以降で・・・

前回、戦場で散った沢村選手のPHOTOを載せたので
筆者と同じ虎キチのために影浦選手も・・・
(前回、間違えました・・・あの頃は阪神ではなく大阪タイガースでした)
Photo
最優秀防御率と首位打者の双方を記録した唯一の男・・・景浦將
1936年秋季に投手として防御率0.79で最優秀防御率、6勝0敗の勝率10割で最高勝率を獲得。1937年、サードの4番打者に転向し、首位打者(秋)、打点王(春)1938年(秋)と群を抜いた活躍を見せ、初代プロ野球日本一と翌年の日本一連覇を牽引した。最優秀防御率と首位打者の双方を記録したのは現在に至るまで景浦が唯一である。

日ハムの大谷くんは、彼以来の偉業をなすほどの選手に育つのか?
・・・二刀流・・・できたら凄いよなぁ

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